WEB塗料報知|塗料・塗装、コーティングのニュースサイト

インタビュー、ピーアイエー 辻信一郎社長

戦後からの塗料業界と未来への想い

昭和32年4月にロックペイント株式会社に入社しました。大学では有機化学を専攻し、入社後マサチューセッツ工科大学で化学工学を学び、夏休みには当時のノースダコタ農業大学(現在のノースダコタ州立大学)で塗料講座に参加しました。帰国後は塗料の技術部門において仕事を始め、昭和51年6月社長に就任し、平成19年6月まで30年間務めました。現在は相談役に就いております。一方、ペイントローラーとスプレーガンを製造するピーアイエー株式会社(昭和58年設立)には平成16年に社長に就任し、現在に至るまで社長を務めています。

日本は昭和20年に終戦を迎えましたが、塗料業界が本格的に動き出したのは昭和25、26年頃からで、私が業界に入った昭和32年頃は新しい技術や設備が導入され、業界は活気に満ちていました。

戦前は油脂や天然樹脂が中心でしたが、戦後になると合成化学全盛の時代となり、無水フタル酸、酢酸ビニルなどが大量に生産されるようになりました。エマルションを使った水性塗料の技術が実用化され、大量に使われるようになりました。また、デュポンが画期的なサンドミルの技術を開発しました。小馬力で連続して大量生産ができるため、塗料の生産方式が大きく変わりました。塗料に限らず画期的なオリジナル技術は、常にアメリカが開発したものです。日本はそれをモディファイするのを得意としてきました。塗装用具も刷毛に加え、パッド(コテ刷毛)やペイントローラーの開発が進みました。ペイントローラーの最初の特許は1940年に出されています。

事務部門のコンピューター化も進みました。ロックペイントは昭和36年にIBM社のコンピューターを導入しましたが、事務部門の合理化の基礎が出来たのはこの頃といえます。

昭和27年から昭和47年までの20年間は、塗料産業も2桁に近い伸びが続き、ものすごい勢いで成長しました。原油は1バレル2ドルくらいの低価格だったと思います。新しい開発技術を駆使して謳歌しました。忙しい中にも楽しく働き甲斐のある時代でした。しかし、昭和48年のオイルショックによって原油が値上がりし、原料が一時的に不足懸念が出て塗料メーカーの倉庫が空になるという事態になりました。しかし、それは一時的なもので結果、塗料メーカーの財務体質が改善されることとなりました。その後、成長は鈍化しましたが、新たな工場もつくられるなど、塗料メーカー各社は業績を伸ばしました。

現在から塗料業界を振り返ると、建築と自動車の需要が大きく伸び、それに関連する塗料メーカーは恩恵を受けました。住居は洋風化、プレハブ化が進み、塗料を多く使うようになりました。

私は日本塗料協会(平成18年7月に日本塗料工業会と統合)の会長を3期務めました。製造以外の販売・塗装業界の方々と親しくなり、それぞれの業界の立場や仕事の内容を理解できたことは大きな成果でした。

今は、DIYを実践する女性を増やす努力をすべきだと思います。塗料販売店で女性を集めた塗装教室を開くのもよいでしょう。楽しみながら、部屋の内部を塗ってもらう方向に持って行くべきと思います。ディスペンサー、水性塗料、低臭塗料を充実することによって、内装に関する関心が増え、プロへの塗装依頼も増えるでしょう。プロの女性ペインターによる内装など、業界を挙げた需要開拓を期待します。

今後の課題としては、日本の会社はもっと女性の活用を進めるべきだと思います。国民の半数が女性ですから、女性を活用しないのはもったいないことです。ただ、扶養家族の年収上限が103万円という制限が大きな壁となっています。また、現在65歳定年制になっていますが、現実は元気な人が多く、65歳以上でも健康な人はもっと長く働けるようにして、豊かな生活を過ごしてもらうようにしたらいいと思います。

最後に未来へのメッセージとして、東京五輪開催後は需要の落ち込みが懸念されていますが、五輪関連の工事が落ち着くのを待っている案件も多く、深刻な問題ではないと考えます。着実に地方創生を進めていただく必要もありますが、塗料・塗装の仕事は今後もなくなりません。希望をもってやっていただきたいと思います。

※本インタビューは2016年10月27日号(4156号)塗料報知新聞社「創立70周年記念特大号」の特別企画です。